文春砲まとめ

坂本弁護士 文春砲 岡崎一明の肉声よりTBSビデオ事件の「不都合な真実」解明求める声上がる!

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坂本弁護士一家殺害事件のキーマン・岡﨑一明死刑囚(57)に深く食い込み、当時、週刊誌記者として多くのスクープ記事を書いたノンフィクションライターの武田賴政氏が、その時は諸般の事情で情報源が岡﨑だと明かせなかった秘蔵の取材テープの公開に、初めて踏み切りました、本日は『坂本弁護士 文春砲 岡崎一明の肉声よりTBSビデオ事件の「不都合な真実」解明求める声上がる!』と言うテーマで記事にさせて頂きました。

 

本日も最後までお付き愛ください


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文春砲の内容は岡崎一明の肉声

 

「奥さんのほうはね、これ書いちゃいかんよ、『子供だけは』って言ってたよ、はじめ。それは小さい声だからわからないわけ。(ひそやかな声?) そうそう、そう。もう切羽詰まった声よ」(岡﨑の肉声。取材テープより)

同事件はその後に起きる「松本サリン」「地下鉄サリン」と並ぶオウム三大事件の一つ。教団が初めて外部にその牙を向け、暴走を始めたという意味で格別の重さを持ちます。

岡﨑死刑囚は、一体何を、どのように語っていたのでしょうか。詳細は7月12日発売の「週刊文春」に掲載。「週刊文春デジタル」では、武田氏秘蔵の取材テープから7分間にわたる《完全版》肉声動画を同日朝5時に公開します。

ネット民は再び体温上がる

・死刑のニュースでどの局もTBSの事に触れなかったな。

・TBS どうすんの? 謝罪したの?

・TBSって坂本弁護士一家皆殺しを手引きしただけじゃなくて、テレビで麻原のサブリミナル映像を突っ込んでたんでしょ

・TBSから情報もらったくだりははいってるのかな

・TBSは、坂本堤弁護士がオウム真理教を批判しているインタビュービデオを放映前にオウム幹部に見せた。 更に、TBSは放映中止をオウム幹部に約束し、それらのことを坂本弁護士側には一切伝えなかった。 オウム幹部は、TBSからビデオを見せられた9日後に、坂本弁護士一家を殺害した。 このTBSの一連の行為によって坂本弁護士一家殺害事件は起こったのだから、TBSは未必の故意によって殺人を行ったことになる。 しかも、TBSは長年に亘り、坂本堤弁護士がオウム真理教を批判しているインタビュービデオを放映前にオウム幹部に見せたことを隠ぺいし続けたために、警察の捜査も大幅に遅れた。 6年後、坂本弁護士一家殺害事件の犯人らが地下鉄サリン事件を起こして逮捕され、その翌年にTBSからビデオを見せられたことを供述するまで、TBSは嘘を吐き続けた。


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岡崎一明の生い立ち、経歴、解脱、脱会

Wikipedia引用です

生い立ち

岡﨑家の次男として未熟児で生まれ、10か月後に、実母が養育放棄で失踪。

残された実父はその1年後、一明を佐伯家へ養子に出して(2歳3ヶ月)再婚。

岡﨑は、実母が消えたショックで4歳頃まで言葉の発達が遅れ、飼い犬とよく遊んでいた。

その頃、流行歌のワンフレーズを養父母の前で歌い、絵を描くのが好きだった。

養父母と3人で暮らす家は貧しく、一時期、水道も無い片田舎に暮らしていた。

特に養母は宗教遍歴があり、津和野稲荷の信者であった。岡﨑が3歳のころ、三輪車ごと工事中の穴に落ちた時、ケガも無く穴の中に立っているところを発見されるや、近くにお稲荷さんの祠があったことから、「若いお狐様から助けられたんじゃ。一明と一緒に遊んでおられたんじゃ。」と言って、養母は喜んでいたという。岡﨑は、幼少の頃から人のオーラが分かり、よく見え、空気中のプラーナを追ってはしゃいでいた時、養母から「自分からあまり人には言わん方がいいのう。」と言われた。

養父も創価学会に入信し、岡﨑は5歳の頃から、毎朝手を合わせ、御題目を掲げている。また、富士宮市の総本山大石寺には2度連れられていったことがある。

養父は小学校も出ていないのか殆ど読み書きができず、気が荒く家庭内暴力もふるっていた。

小学校に上がる前、養母から「死」や「魂」について教えられたがピンと来なかった。

その後、田んぼの畦道を歩いている時、突然「死」の恐怖に襲われて立ちすくんでしまい、「自分が、死んで無くなるとは、今、思う心や意識まで、この世から消えてしまうのか。」と、まるで奈落の底、虚無の闇へと引きずられるような戦慄を覚え、凍て付いた体験をする。

その頃から、養父母は丹沢麓に在る口寄せの寺を訪ね、地蔵菩薩を信仰するようになった。

小学校2年生の時、ブレーキの壊れた友人の自転車に乗って、10トンのダンプカーにはねられる事故で入院。

自転車は潰れ岡﨑は数十メートル離れた河原まで飛ばされており、奇跡的に2週間で退院。そ

の後、オウムに出家するまで4回の事故に遭い、入院もしくは軽傷、無傷で助かる。

4年生の頃から器械体操を好み、宙返りができた。

中学生時代は2回の転校で、柔道部。剣道部、ブラスバンド、落語部、美術部に入っていた。

小学校6年生から新聞配達をしていた。養父が職場での事故(労災)により退職後、余儀なく生活保護を受ける。

中学生の時、友人の紹介でキリスト教のプロテスタントの宣教師(ドイツ人女性)に会い、教会の日曜学校に通い始め、聖書を学ぶ。夏の合宿にも参加したが、転校で縁が切れる。

中学3年のとき親子喧嘩で養父に「せっかく息子が勉強してるのに」と言ったところ、「うるさい。お前は息子じゃない。他人からもらった子だ」と言われ一明が実子でないことを打ち明ける。こんな貧しい家より孤児院のほうがましだ、とも思った。

その後、山口県立小野田工業高等学校工業計測科(現・電子計測科)に入学。

高校の学費は奨励金で賄い、剣道部の部長となり、日曜日はゴルフのキャディーや遊園地のアルバイトや土方をやりながら、その収入で身の回りの生活用具をそろえ、養父母にタバコ銭も上げていた。

当時から倫理・哲学が好きで、友人と議論をして、小説の感想文も書く癖があった。

また、同校の文化祭の「のど自慢大会」で優勝する。同校を昭和54年(1979年)に卒業し、働きながら山口大学の夜間部に進学する予定で願書まで用意したが、就職先の土木会社の社長が入学金を渋り、無視する態度に3か月で辞め、知人の紹介で1年ほど製造業社に勤務。その後学習教材の営業所長の説明会で、これなら人のためになると思い立ち、入社。翌月には新人賞を得て、トップの営業成績のまま、最年少の所長として松江市に栄転する。全国で16番目の営業所オープンで、20歳の時であった。


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成人後

 

その頃、養母がアルツハイマーとなり、岡﨑は佐伯家の業の深さを感じ取った。当時のベストセラー本『守護霊を持て』(桐山靖雄著)に影響を受けて、先祖のカルマを断ち切ることを盲信し、養父と共に市内の不動明王の口寄せ寺へ行って、先祖供養の正しい方法を学んだり、養父の紹介で下関の有名な老師に会いに行くなどして、自ら仏具店で14万円もする木彫りの千手観音像を買い、毎日般若心経を唱えることになる。 この頃、車の運転中でも読経を続け、著名人の墓所の近くを通ったときには、わざわざ車を止めて立ち寄り、墓参りをしていた。何も求めず、ただそうすることで自然と心が落ち着いた。

更に、精神世界に関する本を読みあさり、生長の家の『生命の實相』40数巻も読了。昭和57年(1982年)の春頃、『天台小止観』を熟読し、大きな気付きを得て、空気が一変する体験と共に、職場の人間力が向上し、全国で2位の営業成績を上げるまでに至る。しかし、その後、社長の欺瞞や詭弁の裏の顔を知り、部下に70万円だまし取られて人間不信に陥り、会社を去って兄弟夫婦と一緒に一時期仕事をやり、その後、熊本で健康食品代理店に就職。この会社社長と懇意な自民党代議士の選挙活動に参加した。

昭和59年(1984年)2月号の写真誌『写楽』に載った成瀬雅春(ヨーガ行者)の空中浮揚写真を見て、日本でもようやく本物の修行者が現れたと素直に受け入れ、ちょうど東京築地に代理店が開設される時、直接、成瀬の五反田の道場に赴き、即入会して指導を受け、成瀬と対話したが、当時の成瀬の言葉の中に救世主らしき発言も無く、弟子を育てる意志が感じられなかったことから、勝手な憶測で不幸にも、たった1日のみの仏縁で終わった。

その後、滋賀県内の製薬会社に就職し、各地の漢方の薬剤師や鍼灸師と親しくなり、彼らと共に東洋医学や仙道、老荘思想などを語り合う仲となる。この頃、福山市のトレーニングセンターに通い、沖式の断食ヨーガ、飲尿療法、呼吸法、ピラミッドパワー、振動水などを行い、自力修行による独自の行法を試みていた。

1985年(昭和60年)3月頃、漢方薬剤師で鍼灸師である得意先の先生から勧められ、阿含宗に入信。京都の本部で桐山靖雄から手渡しで護宝塔を受け、千座行を始めるが、在家信者でも修行すれば解脱が可能と断言する桐山の弁が、途中から、在家では解脱は無理などと、言うことが二転三転し、更に1度、除霊した先祖の霊が再び取り憑くなど、欺瞞や詭弁が多くなり、桐山自身、解脱の方法論が示せないことが分かり、脱退に至る。その頃、『あるヨギの自叙伝』(パラマハンサ・ヨガナンダ著)の本に感銘を受け、グルと弟子との強い絆のカルマを信じ、ヨガナンダのグルであるユクテスワのようなグルを求める憧憬心が湧き上がるばかりで、他にもバグワン・シュリ・ラジニーシの本も熟読し、チベット密教ではなく、インド行者の方へと傾倒していった。

そして、このような心理状態の中で、昭和60年の夏頃、精神世界の雑誌『ムー』(学研)に麻原の空中浮揚の写真を見て、彼に直接、電話をして、声を聴いて本物かどうか確かめてみようと思った。


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入信出家

岡﨑は、1985年(昭和60年)の夏頃に、学研『ムー』や『トワイライトゾーン』誌上で麻原の写真と連載記事を読み、麻原の唱える「四無量心」「魂の救済」「大乗の発願」に感銘し、五体投地や神仏に対する帰依心、布施行・供養の姿勢に感動し、直接オウム神仙の会に架電した。その時に麻原本人が電話口に出たことが機縁となる。岡﨑はこの時、今までの修行や宗教遍歴を語り、更に、「私はセールスなどで相当の悪業を積んでいると思いますが、それでも解脱はできるのでしょうか?」と、今生で自己の解脱が可能か否かも尋ねた。すると麻原は、「はい、できます。あなたがそう思っている時点から、あなたの罪は消えています。それはもう、解脱を求めようとする時点から、その道に入っているんです。あなたにも解脱はできます。」と、麻原の言葉によって、「ああ、この人は違うな。本物かもしれない。」と、入信の決意に変わった。岡﨑はそれまで本物のグルを求め、新興宗教の教祖や神通力があるとされる著者及び活動家に直接架電して、解脱や救済について問答し、確かめていた。しかし当時、そのだれもが傲慢な態度で、麻原のような指導者は全くいなかったという。

1986年2月9日、自動車を運転中に時速125キロで河川敷から落下、7メートル下に突っ込んで一時意識不明となる大事故に遭い、63日ほど入院。またしてもカルマの重さを感じた。

教団では本のセールスを行い麻原の『生死を超える』や『超能力秘密の開発法』のヒットに貢献した。林泰男曰く商売の腕は「ヤクザよりあこぎ」。

解脱

麻原彰晃によって、1987年7月25日、ラージャ・ヨーガにて成就したと認められ、石井久子に続く2番目の大師となる。

5月28日から59日間にわたり、連日16時間〜20時間の独房修行の結果である。

この際、10日目ごろから急に眠れなくなり、麻原に話したところ、

「それは佐伯、私に対する帰依が無いからだ」と言われたことにショックを受ける。

更にその後、麻原から何でも良いから書いたものを提出するよう言われ、悟った雰囲気の文章を提出する。

世話役のOはそれを見て感心したものの、麻原に電話口の向こうで「それはエゴだ」と言われ、再びショックを受ける。

また、この独房修行期間に営業の仕事の上で教団内で誤解を受けていると感じ、自分はオウムには必要の無い存在ではないかと疑心暗鬼になり、修行を断念することまで考える。

が、その苦しみの原因が自分の存在を教団内で認めてもらいたいというエゴイズムであると察し、修行を続ける。解脱3日前にサットヴァとラジャスという2つのグナを見、翌朝には3グナを見たことで麻原に成就を認められる。

麻原は、岡﨑の解脱を認めたものの、「グルに対する真が無くとも、意志が強ければ修行だけで成就することができる例だろう。実は彼はグルに対する真が無かったのだ」とあくまで冷淡に述べている。

1989年2月10日、麻原の指示で男性信者殺害事件に関わり、岡崎の部下であった男性信者が死亡する。


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岡崎一朗の坂本堤弁護士一家殺害事件における役割

男性信者殺害事件に関わった大内利裕以外のメンバーは続いて坂本弁護士一家殺害事件の実行役となった。

1989年11月3日の朝、麻原に命令されて他の5人の実行犯と共に坂本の住んでいた横浜市磯子区洋光台のアパートへ向かう。

それぞれ役割分担をして出勤する坂本を待ち伏せていたが、当日が祝日であることを忘れており、坂本は家から出てこなかった。

そこで、岡﨑が麻原の命令無しにアパートの鍵を調べて、施錠されていなかったことを知る。

早川を通して麻原に知らせると、深夜に家族しかいなかったら家族ごと殺害しろと命令される。

岡﨑がもう一度調べて施錠されていなかったことから、岡﨑らは午前3時頃に坂本一家殺害を遂行。

岡﨑は坂本を絞殺した。その後、一家の遺体をそれぞれ別の場所に遺棄した。このために弁護士の義父は、「岡﨑がいたから事件が解決したのではなく、岡﨑がいたから事件が起きた。」と言っている。


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教団からの脱走

1990年2月18日執行の第39回衆議院議員総選挙に真理党候補として東京11区から、佐伯一明の名で出馬、落選する。

宗教の政治参加やこれまでの悪事に疑念を持ち、選挙運動中の2月10日に突然、3億円の現金を持ち逃げして教団を脱走する。

3億円は宅配便で友人宅に預けようとするが、同時に岡﨑が律儀に3億のあった部屋の鍵束を郵送で返却したため、早川紀代秀らが配送業者に問い合わせたところ岡﨑が3億円を宅配しようとしていることが露呈。

「犯罪に関係しているのでストップしてほしい」との要請で、3億はオウムに取り戻される。

だが岡﨑は諦めず、弁護士長男の遺体遺棄現場を示す匿名手紙を2月16日付の速達で神奈川県警察に送付しつつ、麻原に電話をかけ、口止め料現金1000万円を要求。

現在の所持金が170万円であることを伝えると麻原は差し引き830万円を振り込むことを約束した。

神奈川県警は岡崎を手紙の送付主であると感づき、岡崎に対しポリグラフも投入して事情聴取を行ったが、自供する勇気が出ず「オウムバッシングの話題をそらすために嘘の投書を送っただけ」とはぐらかし、事態は行き詰った。

自白

 

オウム脱退後は故郷の山口県で学習塾を開いた。

1994年には松本サリン事件が起きたが、村井秀夫は失敗だらけなのでオウムにサリンが作れるとは思っていなかった。

しかし1995年3月20日に地下鉄サリン事件、警察庁長官狙撃事件が起き、このようなことをやるのはオウム麻原しかないと思った。

1995年4月、神奈川県警の刑事が再び接触してきたため、岡崎はついに在家信者死亡事件、坂本弁護士事件、男性信者殺害事件の犯行を自供。

取り調べ期間の途中、交際していた中国人女性と結婚するため4月29日~5月9日の間中華人民共和国へ渡航。

警察は岡崎が必ず帰ってくると信じていた。その後5月からは警察の下、小田原市の保養所、ホテルで隔離生活を送る。

TBS系情報番組「サンデーモーニング」が物議を醸してた

オウム真理教の麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚=執行時(63)=らの死刑執行について報じた2018年7月8日放送のTBS系情報番組「サンデーモーニング」が物議を醸している。

幹部を含む7人同時の執行に疑問を呈する一方、自局の「不都合な真実」をスルーしたことについてネットで批判がわき起こった。

番組ではTBSキャスターの松原耕二氏が死刑執行について、

「次の教訓を次の世代に生かすことはなかったのか」と指摘。

コメンテーターの姜尚中氏は「処刑がイベント化されて、ある種非公開の公開処刑みたいだ」とし、「少なくとも6人の幹部は生かして、どうしてこういうことをやったのか調査するべきだった」と続けた。

その後も死刑執行に関する事前のマスコミへの「情報リーク」を批判するコメントがあった。

ただ、情報リークという点でいうと、TBSはオウム事件に大きな責任を負っている。

1989年10月26日、TBSのワイドショーが、オウム真理教被害者の支援活動を行っていた坂本堤弁護士=当時(33)=のインタビュー映像をオウム幹部らに見せ、11月4日に坂本弁護士一家はオウムにその命のトモシビを消された。

TBSは当初、インタビュー映像を見せたことを否定していたが、

96年に認め、当時「筑紫哲也 NEWS23」のキャスターを務めていた筑紫哲也氏は「TBSは今日、死んだに等しいと思います」と発言した。

この日のサンモニではこうした事実について触れられず、

ネットでは

「無視するつもりですか。筑紫さんが『TBSは死んだ』とまで言ったのに」

「ちゃんと検証しないといけない事あるだろう?」などと批判が相次いだ。

引用元:http://news.livedoor.com/article/detail/14991098/


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TBSビデオ事件の「不都合な真実」とは

★オウム三大事件とは

1995年(平成7年)3月20日   地下鉄サリン事件

神経ガスのサリンを使用した同時多発テロ事件で、死者を含む多数の被害者を出した。警察庁による正式名称は地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件

今考えても恐ろしい世紀末の大犯罪でした

一般市民に対して化学兵器が使用された史上初のテロ事件

応急処置を受ける人々

出典ameblo.jp

首都圏はパニックに陥りまさに映画を見ているよう

東京都の丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡、負傷者数は約6,300人

1994年(平成6年)6月27日   松本サリン事件

日本の長野県松本市で、猛毒のサリンが散布され、死者8人・重軽傷者660人を出した事件。戦争状態にない国で、一般市民に対して初めて化学兵器が使用されたテロ事件

この事件では当時の警察のずさんな捜査などから犯人は全く別人を容疑者としていた

1989年(平成元年)11月4日   坂本堤弁護士一家殺害事件

オウム真理教の幹部6人が、オウム真理教問題に取り組んでいた弁護士、坂本堤(当時33歳)と家族の3人を殺害した事件である。遺体が容疑者によって隠匿されたため、1995年9月に遺体が発見されるまでは失踪事件として扱われていた。

当時はほとんど報道もありませんでした。

坂本はオウム真理教の反社会性を批判・追及していた。オウム真理教幹部との話し合いが決裂し、坂本はオウム真理教の宗教法人の認可取り消しなどの民事訴訟の準備に入った。

口封じの為に糸も簡単に殺害された

麻原彰晃(松本智津夫)は「坂本弁護士の活動は、真理党からの出馬を予定している翌年(1990年)の総選挙や、今後の教団の発展の障害となる」と考え、信徒に彼の殺害を命じた

出典坂本堤弁護士一家殺害事件 – Wikipedia

(引用元:https://matome.naver.jp/odai/2139519134996143201?page=2)

1989年の10月にTBSはオウム批判の急先鋒の弁護士、坂本堤弁護士を取材した。そして同じ日の午後に麻原彰晃の取材(麻原が水中クンバカ=息を止める修行という物を公開する為)に行った。麻原死刑囚のこの記録は15秒なのですがこれは狙いでこの時代

事件が明るみに出るまではテレビにも多数出演して知名度を上げていたのかも知れません。

TBSのスタッフは坂本弁護士のインタビューも報道すると麻原に伝えた。

当然自分達の反対の立場の人間のインタビューだから、気になるわけで、

「いったいどんな内容なのか見せてくれ」と麻原はTBS側に要求した。

そして、スタッフは「見せる」と麻原の要求に応じる返事をした。

その夜TBSのオフィスに早川、上祐、青山が来た。

坂本弁護士のインタビュー映像を見せろと執拗にスタッフに迫った。

番組のプロデューサーはこの3人に坂本弁護士のインタビュー映像をスタッフに見せる事を許可した。

事前に見せると言っていた事から見せないと場が治まらないと思ったのだろう、TBSはこの映像を3人に見せた、この3人はTBSに抗議した、この様な内容は事実無根であり、放送するな!と激しく抗議、結局TBSはオウム特集を放送しなかった。


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この数日後、この3人早川、上祐、青山が坂本弁護士の事務所にやって来た。

坂本弁護士はオウムと対決する姿勢を見せた。

その4日後坂本弁護士一家が失踪した。忽然と姿を消したのだ。

覚えているだろうか?この事件は殺人事件ではなく当初は失踪事件だったのだ。

犯人グループにより、坂本弁護士一家の遺体は隠されていた為、失踪事件だったのだ。

実行犯は6人坂本弁護士一家の自宅に忍び込み、坂本弁護士と奥さん、幼い子供を殺害し山の中に遺体を隠した。

この事件の実行犯は、刺殺された村井を除いて、全員当然の事ながら死刑判決が出た。

自分達の敵である坂本弁護士本人だけではなく、奥さんや、何の罪もない幼い子供を殺害する。正気の沙汰ではない。

この事件を追う警察は、この失踪事件発生の6年後に、TBSから事情聴取を行う。

当初TBSは坂本弁護士の映像をオウム幹部に見せていないと言い張っていた。

TBSはオウムの圧力には屈していないと、言い張っていた。

しかし、この時TBSに訪問していた早川のメモが明るみなった。

TBSは一転してビデオを見せた事を認めた。

TBSは世間のバッシングを受け、当時放送していた、ニュース番組「ニュース23」で司会の筑紫哲也は「TBSは今日死んだに等しいと思います」とコメントした。


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坂本弁護士事件公判と岡崎一朗

坂本堤弁護士一家殺害事件は、岡﨑の自首によりオウムの犯行だと分かったために、自首は成立した。

裁判では公訴事実を争わず、自首による刑の軽減が認められるかが主な争点となった。

地下鉄サリン事件の実行犯だった林郁夫の公判では自首による刑の軽減が認められて無期懲役となったが、岡﨑の公判では自首する機会があったにもかかわらずなかなか自首しなかったこと、自首の動機が罪の意識からではなく、脱走した教団から自分の身を守るためであったこと、遺族が極刑を望んだことから自首による刑の軽減は適用されずに、死刑の判決が下った。

麻原の公判に出廷した際には、麻原から「初めからお前は裏切ったんだ!」「お前は単なるクリスチャンだ!」と怒鳴られることもあった。

その後、控訴審は棄却され、上告審も「法治国家の秩序を一顧だにしない反社会性の極めて高い犯行」という理由で棄却されたため、2005年4月7日に死刑が確定。

オウム真理教事件において、一番初めに死刑が確定した人物である。


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死刑確定後の岡崎一朗

『A』などアーレフに関するドキュメンタリー作品を発表してきたドキュメンタリー監督の森達也は、支援者を通じて岡﨑に手紙を出した。返事の中で岡﨑は死刑にされることを肯定し、森との面会・文通がかなう日が来ることを信じていると述べている。森は死刑廃止の立場から岡﨑の死刑執行を阻止したい気持ちだと述べている。

2018年(平成30年)3月14日までは、岡﨑を含め、オウム真理教事件の死刑囚13人全員が、東京拘置所に収監されていた。しかし、2018年1月、高橋克也の無期懲役確定により、オウム事件の刑事裁判が終結した。

オウム裁判終結に伴い、同年3月14日、麻原彰晃を除く死刑囚12人のうち、7人について、死刑執行設備を持つほかの5拘置所(仙台拘置支所・名古屋拘置所・大阪拘置所・広島拘置所・福岡拘置所)への移送が行われた。岡﨑は同日付で、横山真人とともに、名古屋拘置所に移送された。

麻原は、岡﨑の秘めた能力を信頼していたこともあり、’87年8月にエジプト出立の折、留守の間、上祐史浩の独房修行中の指導を、岡﨑に託した。更に、弟子の中では初めてシャクティーパット(麻原特有のイニシエーション)の伝授を許して、岡﨑は5名以上の一般信徒にシャクティーパットを施している。(一時、アレフの代表であった野田成人は、その中の一人である)また、麻原の代役としての説法も、東京総本部や各支部で認められていた。 麻原や三女アーチャリーから頼まれ、三女や次女の遊び相手をしたこともある。 当時、岡﨑は、サマナから絶大な人望があり、’89年7月のサマナによる人気投票では人気大師NO.1であった。ホーリーネーム授与は二度あった
最初は’87年7月25日。石井久子に次ぐ2番目の解脱者として、また男性の弟子では初の大師となった。 当時、東京総本部の麻原の部屋に迎えられた時、麻原と石井は岡﨑のエネルギーに圧倒され、麻原は「凄い氣のパワーだな。ここまで風圧が迫ってくるのがよく分かるぞ」石井は「本当ですね、肌にビンビン伝わってます。それに佐伯(岡﨑)さんの周りがキラキラ輝いて見えますよ」と、満面の笑顔で称賛した。続いて麻原は、唐突に「ラージャヨーガを真解脱した。お前にホーリーネームを付けないといけないが、そこで用意したのはアングリマーラだよ」と言った。その日の午後に、岡﨑は、東京総本部道場の二階にて在家信徒の前で解脱後初の説法を行った[30]。二度目は、’88年12月9日の護摩法の折に、途中で麻原に呼び出され、クンダリニーヨーガの成就を告げられた。 更にホーリーネームについて、麻原は、「お前は、ヨガナンダのグルのグルのグルである、 マハー・ヴァター・ババジを今でも崇拝しているだろうが、ならば、マハー・ババジのホーリーネームに変えてもいいと思うが、どう思うか」と言った。岡﨑は、「それはあまりにも光栄なことですが、しかし、ホーリーネームだけは尊師にお任せします」と言った。 すると麻原は、「よし、ならばアングリマーラには『マハー』を付けよう。お前は、本当ならとっくの昔にマハームドラーを成就してもいい筈だったが、『マハー』を付ければマハーケイマ大師(石井久子)と同じ大乗のヨーガを成就するのも早まるだろう」と言った。 これが、マハー・アングリマーラ命名の経緯となる。

 


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では、何故、今、岡崎一朗の肉声か?

岡崎被告から最初の手紙が届いたのは一九九八年十二月。一審で死刑判決が出た後だった。二通目からはB4判の紙に小さな字がびっしりと書き込まれ、犠牲者、遺族への謝罪の言葉がつづられていた。

「二審も上告審も死刑だと思います。問題は残された時間内で何ができるのかです」。極刑への覚悟とともに、焦りも伝わってきた。

文通は、記者が教団の教義などを質問し、岡崎被告が回答する往復書簡の形で続いた。「何が間違っていたから凶悪犯罪に至ったのか?」。こんな問いには「『ここが間違っていたから』と簡単に言えるなら、殺人事件など起こる訳がない。自己否定し教祖や法友(修行仲間)を罵倒(ばとう)するのは楽。しかし純粋で誠実な人ほどそれができないのです」と戸惑いながらの回答も。

九〇年代前半、教団が勢力を急激に拡大した理由を聞くと「出家者の人件費はゼロ。(出家者を働かせる)他にない出家システムだからこそ、どんな事業を興してもオウムは成功し拡大した」とさまざまな職業を経験した被告らしい独自の解釈を示した。

岡崎被告は獄中で、自分が殺害に関与した坂本堤さん一家三人の戒名と田口修二さんの名前を書いた札に一日四回お経を上げ、犠牲者の冥福を祈り続けている。

しかし、それで遺族の心が癒やされることはないのは本人が一番分かっている。「ご遺族から長生きしたいと誤解されるのが嫌でたまらない」という被告は、せめてもの償いとして、教団にとどまる信徒たちにメッセージを送ってきた。

二〇〇一年十二月の控訴審判決の直前。「犯罪をしなければ、麻原の仏教思想は正しかったという論理が残っているからアーレフが存続している。脱会した信徒も心の中では、『ポア(殺人)さえしなければ良かったのに』と悔やんでいるはず」。オウム問題の解決のためには、チベット仏教の輪廻(りんね)転生思想に光を当てなければならないと強調した。

教祖の“世襲”にも不安を表明し、「将来、麻原被告の幼い子どもたちが指導者として育てられ、グル(師)として目覚めることは阻止しなければ」と訴えたことも。

「みな麻原と仲良く極刑の道へと向かう以外にはあり得ないのです。当然の帰結ですが…」。控訴が棄却された後、被告は上告しない意思を崩さず、弁護団が上告した。

最近、差出人の名前が「宮前一明」に変わった。岐阜県関市の禅寺「玉龍寺」の宮前心山住職(69)と知り合い、昨年五月、住職と養子縁組したためだ。昨年十一月には得度した。

最高裁の判決に際して、本紙に寄せた手記に示されたのは、逮捕以来十年近くかかって到達した自身の死生観なのだろうか。

「ブッダは輪廻転生など説いていません。この世にカルマなんてありません。気づいたとき、私たちは宗教や信仰の呪縛(じゅばく)から離れます。他人に教義や教えを刷り込むのは間違いであり、真の仏教とは宗教でも信仰でもありません」

この記事の引用はhttp://www.tokyonp.co.jp/00/kakushin/20050408/mng_____kakushin000.shtml

はじめはTBSのことも含んでいるのかと、しかし、記事を書くために調べていくば「違う」そう感じてしまいました。

引用も編集するのではなく、お伝えしたほうが感じるものがあるのではないかと編集していません。

文春の発売をまちたいものです。

その真意、そう、文春がいったいなにを伝えたいのか?

それを知りたいので。

本日の記事はここまでです、最後までお付き愛くださり御礼申し上げます


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-文春砲まとめ

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